子どもを連れて出かけるようになって、児童館のように何箇所か決まって通う場所ができると
そこでだけ会う知り合いができる。一度きりの人もたくさんいて、どちらにしてもその場だけ、おしゃべりをすることになる。
これにとっても助けられていて、気持ちがほぐれたり、悩みが解決したり次のアイディアが浮かんで前向きになったりしてる。
ながい1日のたった10分かもしれないけど、じゃあ、と別れた帰り道にほくほくした気持ちになることが多い。
これはわたしの場合は、「その場でしか会わないひと」だからかなあと思ってる。
ちょっと重めの悩みとかグルグルして抜け出せなくなっていることでも
もう2度と会うかわからない、しかし同じく子育て中で共感を得やすい相手に話すとなんだかすーっとする。
(偶然また会って、あれからどうなった?と覚えていてくれるのもとてもうれしいし、わたしも「あの親子どうなったかな」という時がある)
たいていはこんな感じだけど、何回かに一回「あんなこと言うんじゃなかった」とか「ああ言ったけど嫌じゃなかったかな」と反省会が始まって止まらなくなることがある。
そんなに気にしてなかったけど、児童館など子を連れている場所での会話は
・よく知らない相手(背景がわからない)と
・子を見ながら
・限られた時間で
の会話になるので言葉をじっくり選んでいる暇がないことがしばしば。
帰ってきてから会話が蘇ってきて、自分の発言を振り返っては反省をして、
大喜利みたいだなあと思う。
べつに一本とろうとか思ってないけど、瞬時にぴたりとくる相槌とか返答をさぐりながら会話してることに気がついた。
思っていたら、このように、わたしのように「帰ってきてから反省」してるひとは結構いるみたいだということがわかった。
それですこしほっとした。
あと、自分が人に嫌なこと言っていないかは気になるのに、いままで出会ったママから嫌なこと言われた!みたいな記憶がないということにも気がついた。
じっさい出会う人みんないい人と思う。だけど全員が人間のできた人というわけではあるまい。
いろんな人がいるはずで、嫌なこと言う人がいないなんてありえない。でもわたしは傷ついてない。のに誰かを傷つけてないか心配して傷ついてる。
へんなの、そんなに心配しなくていいのかなあと思うまでが最近の一連の流れになってる。
でも、誰かが何かを発言するとき、傷つかない人がゼロというのはほぼないんだと最近思ってる。
「ありがとう」一言だって、傷ついたりケッって思う人がいるはずで、
もちろん傷つく人が少ないように丁寧に言葉は選んでいきたいけど、ゼロにこだわるのはまたなにか別問題なんだろうと思う。
それでも気になる。直近では「大物女優の風格ですね」って言ったけど大丈夫だったかなとか。
最近はなにげない一言でさえ(だからこそ?)たいへんなことになってしまって
心ない言葉や必要以上に攻撃的な言葉を発するのはよくないけど、それと同時に
受け取り方が人それぞれ、というのもあるし、受け取る側が言葉を受け取る準備をしていなくて大騒ぎになってしまうケースも多いのではないかなあと思うことがある…
日々の大喜利的状況を気にしてる人が結構いるんだと知ったとき、あの限られた条件ででみんな、2度と会うかわからない互いを気遣いながら喋ってるんだなと思った。
それはすごいいいことだなあと思ったり。
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